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Section 3 – 子供時代
『ひとつだけ、僕から注意しておきますよ。ふふっ』
「……」
ふと、道の先から聞こえてきた声に、散理は足を止めた。
視線を上げるとそこにいたのは、サイズの合わないワイシャツを着た少年が立っていた。にこやかな笑顔を浮かべた、年齢にしてまだ六、七といった程度の少年だ。
輪郭や姿ははっきりしているが、不思議と髪色や細やかな顔立ちなどはよく分からない。
しかし、その雰囲気は歳に見合わないどころか、むしろ大人よりも落ち着き払っているようだ。……同時に、洞窟の奥を覗きこんだような底知れなさもある。
『それの脳は別に弱点でも何でもありません。唯一の対処法は――落とすこと』
少年が歩みより、『サムライ』の腕をひっつかんで道路の外へ投げ飛ばしてしまう。『サムライ』は手足をジタバタとさせながらも、どこか呆れたような雰囲気で落下していった。
それから、また散理の方へ向き直った。
「……あなたは?」
『ここにいるということはつまり、僕もとある人に忘れられてしまった存在なんですよ。……さて、歩きながら話しませんか?』
「ふむ……」
少年は散理の返事を待つ気はなかったのか、軽く笑顔を向けるとひとりで歩き出してしまう。
たった今『サムライ』が突き落とされてしまった道の下を覗きこみ、少しばかりぼやけた景色を眺めてから、散理も少年と肩を並べて歩く。
「年齢のわりに、随分大人びているようにも見えますね」
『あははっ、よく言われます。でもどっちかって言ったら、ただ少し頭が良くて、生意気なだけのほうが適切でしょう』
「そう……ですか」
どこか記憶にあるな、と散理は思った。
『ほとんど毎時間授業を抜け出して、校庭の花を観察したり、空を見て雲をスケッチしたり……。しっかりした、大人びた子供はそんな不良じゃないですし』
「ええ」
『僕がそのまま中学、高校と上がっていっても、やっぱりそうやってサボってばっかりなんでしょうかね?』
「……そうかもしれません。ところで、ひとつ質問をしても?」
少年が少し振り返り、嬉しそうな笑顔を見せる。
『もちろん』
「化学と物理はお好きでしょう」
『ははっ、大好きですよ! とりわけ有機化学は僕が特に好きな分野でね。有機化合物はペットボトルだってそうですし、薬品もそうです。設計図――それか、美しいオブジェのようだって思いませんか? 周りから見たらそうでもないみたいですけどね、あはは』
よっぽど化学に興味があるようだ。少年は生体分子だの、創薬研究だのについて、到底子供とは思えない知識をスラスラと語ってみせる。
散理はその話の内容をすべて知っていた。どこかで――どこで誰にいつ、すべて忘れてしまったが、自身も無邪気にそんな話をしたことがあったからだ。今でこそ人を食ったような人間だが……。
……一度大人になってしまえば、子供時代は戻らない。
『ああ……すみません。思わず長々と話してしまいましたね。ここにいると、そんな話ができる機会なんてそうそうないものですから』
そう呟いて肩を落とす少年。
ようやく、彼らの単調な道が終わりを見せ、かわりに大きな塔が現れる。その表面は白と黒の美しい幾何学模様で飾り上げられており、その隙間に緻密に計算された窓ガラスが、精巧なステンドグラスのように嵌められていた。
もう、散理はこれを虚飾だとは思わない。
『これは僕がエレベーターボーイを務めているタワーです。みんなからは「ウィンドチャイム塔」なんて呼ばれてて……かわいい名前ですよね。ここに流れ着いた素材を張り合わせたのも僕で、なかなかいい出来になったと思います』
「あなた一人でこれを?」
思わず散理は呟いた。この天を衝くような、とても大きなエレベーターを作り上げるのに、いったいどれだけの歳月を費やせばいいのだろうか。
『あははっ、もちろん僕だけの力じゃ無理ですよ。設計は僕が立てましたけど、他にもここにいる友達がいろいろ協力してくれましてね。ほら、さっきの「サミュライ」くんも僕の友達のひとりなんです』
嘆息する散理。
「……あなたを尊敬しますよ。はっきり言って、今の僕ではこんなものは作れそうにない」
情熱なんて、とっくのとうに置いて来てしまったから。
少年がエレベーターの正面へ歩み寄ると、小さな噪音と共に両開きドアが開く。
『じゃあ、どこまで行きましょうか?』
「そうですね。……では、僕が行くべきところまで」


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